医と宗教 ~構造医学の思想哲学~

2020年2月の講義より医の原点と、医療者として避けては通れない心や宗教の問題について書き起こしました。

「医と宗教 ~構造医学の思想哲学~」
解剖慰霊碑

東京大学の本郷キャンパスに置かれている、実際に使用された解剖台
東京帝国大学名誉教授であった三浦 守治・山極 勝三郎両先生は自ら献体を申し出、この解剖台で死後剖検された 写真は意気昂然と二歩三歩~山極勝三郎博士の生涯と実績~より転載

解剖慰霊碑

熊本大学医学部の解剖慰霊碑
例年11月には「熊本白菊会」による解剖慰霊祭も行われる

動物慰霊碑

同じく熊本大学の動物慰霊碑
キャンパスのはずれにひっそりと置かれている 写真は熊本大学 生物資源研究・支援センター 動物資源開発研究施設より転載

思想・宗教は構造医学を体系化する学問の一つ

科学と技術は学と業、車の両輪として発達し、我が国でも明治以降の産業発展を支えたが、それらは多くの犠牲の上で成り立っている 三井・三池炭鉱粉塵爆発慰霊碑
写真はNPO法人大牟田・荒尾 探鉱のまちファンクラブより転載

日本の医学部のキャンパス内を歩けば、信教の自由等の問題をはらむ国公立大であってさえも、解剖献体への慰霊碑を、薬・農学部なら実験動物の供養碑を見つけられるでしょう。
ひっそりと奥まった場所に安置された碑は、思想や宗教にまつわる困難を象徴するかのようです。
ターミナルケアや輸血といった限られた局面で焦点化されがちな宗教・哲学・思想などの形而上的問題を、構造医学では医療者が必修し、心に留めておくべき問題として例年セミナーの早い時期に取り上げています。幸いにも、医の源字である【毉】の解説等に話が及ぶと、多くの受講生が姿勢を正して傾聴する真摯な様子が毎年見られます。
以下には2020年2月のセミナーで吉田先生が講義された「医の原点」について書き起こしをまとめています。年間受講に臨まれるにあたり、医療者として避けては通れない心や宗教の問題を真正面から考えてみてください。

構造医学と宗教・哲学など
黒板に毉を書く院長写真

人間の苦悩は主に3つ

まず受講生に感じてほしいのは「医療と医学は違う」ということです。医療は実施している行為、医学は学問的な問題なので元々が違います。
医療の正しさを吟味するために医学は必要であるという目線で見ると、人類の苦悩は概ね紀元前15世紀くらいから変わっていません。

アトラス像 何か分からない得体の知れないものを首に背負って苦しんでいるアトラス
この苦悩は病の表現
ラオコーン像 蛇に襲われる子供たちを救うべきか、先に蛇を討伐すべきかを苦悩している
さらにラオコーン自身も蛇に巻き付かれ苦しんでいる
この苦悩は疾患の表現
ピエタ像 聖母マリアが処刑された我が子イエスを抱きかかえ嘆き苦しむ様子
肉体的ダメージなのか精神的ダメージなのか分からない苦しみ

この3つの彫刻は人間の苦悩であり、肉体的なものだけでなく精神的な疾病を表しています。さらに未知の(解決できない)苦悩も抱えた西洋における病理の本体を示しています。
ラオコーンの苦しみに対してどのような対応をしたのかというと、ペインクリニックでは痛みを取り除きましたが、苦しみが取れるわけではない。
聖母マリアの苦しみは何によって癒されるのか、得体の知れないものを首に抱えるアトラスの苦悩はどうやったら取り除けるのか。西洋の合理主義は途中から、例えばアトラスに対して彼の抱える得体の知れない何かを横から支える方法などを考えましたが、結局三者どの苦しみも取り除くことが出来ません。
つまり、医術や癒しの限界は何かというと、苦悩している本人がそれを乗り越える力を宿さなければ、あるいは苦悩に耐える力を宿さなければ、この問題は解決しないことを暗示しています。
だから私は、医療の目的行為は最終的に、苦悩している相手が自ら乗り越えるあるいは耐えねばならないと気付き、問題と対峙してくれることだと思います。もちろん医療者が手を加えられる領域があれば手を加えればいいが、最終的には苦悩は本人が背負わなければならない。この苦悩を真正面から背負うことが出来る人を作ることが医の持つ最終的なゴールだと思います。
この中には配偶者が病に倒れられた方がいます。可哀想で、苦しそうだから自分が代わってあげたいと思っても代わることは出来ません。それをまるで代わってあげられるように言うのは問題だと思います。

終局的に上のアトラスとラオコーン、マリアの苦悩のテーマを持っておけば、他の疾患を持った患者さんが来た時にして差し上げられる領域が見えてくると思う。ところがこのテーマに真正面に立ち向かっている医学書はほとんどない。何故かというと脳科学的に言えば間脳は心と体を結び付けている要素を内包しているのですが、この機能について十分に解明されていないため、対策が不十分であったことによります。
また、心と体は別物として二元論という形で存在しているが、医術は二元論ではなく心と体を結び付けなければいけないので皆さんには最初に毉というものを教えてきました。

毉の原点

もともと、「医」という字は次のような形でした。

毉
矢を閉じ込めている箱の一角が抜けて、矢の方向を定めているということ
手で立てるもの(差し棒、タクト)
巫女が声を上げて神を呼ぶ招魂のことで巫祝の意

医は技術の矢、殳はどうそれを扱うか、巫は祈りの心の意味を持ち、この3つがなければ毉は成立しません。つまり技術だけでは医療は出来ないということです。
本当はこの医・殳・巫がすべて揃わないといけないが、日本の教育は制限をかけてきました。【巫】はオウム真理教事件から、【殳】は相手方に過剰に指揮命令をすることはいけないことと取り締まり、結果、残った【医】を医療とし技術だけを一生懸命磨かせています。
しかし技術だけを機械的にやっても医療者は患者から真の感謝というものを受けられず報われないから、お金に走る人が出てくる。そして「今日何人患者さんが来たか」ばかりに囚われてしまう。
もちろんそれも大切なのだけど、お金の前に患者さんが無事であるように考えなければいけないのに、来てもらわなければお金にならないということばかり考える。いつしか、患者さんを送り出しているときに、お金になるよう次に来院してもらうことばかり考えるようになりますが、それは本当の医療でしょうか?

ドクターとチャプレン

なかなかこの三つ巴(医・殳・巫)を一人でやるのは難しいから、西洋の世界でも東洋の世界でも同じ人たちがいます。それは聖職者と呼ばれる人たちです。
聖職者は宗教家とは限らないけれど、チャプレン※1と呼び表します。日本ではチャプレン(聖職者)がいるところはホスピスやビハーラだけです。それ以外のところでチャプレンがいたら、神父さんがいたり牧師さんがいたりお坊さんがいたら気持ち悪いと言うでしょう。
でも、アメリカの軍の病院でチャプレンがいないところは一か所もないし、大きな病院でチャプレンがいないところも一か所もないんですよ。何故かというと合理的に技術を行使しているけれども、痛みや苦痛だけを取り除いても苦悩は取れないから、患者からの感謝が得られずに満足も得られないからですね。
ではチャプレンが何故病院にいるのかというと実は宗教性というものがある世界だから、医学の方にはチャプレンはいらないけれども医療(医術)のほうにはチャプレンが必要なんです。しかしそのチャプレンは、本来は皆さんの中に存在しないといけないわけです。医療を行使する人間の中にチャプレンの両方が存在しなきゃならない。それを否定した教育をすると患者は救われない。
自然人類学の中から実際に見えたもの。それは、我々が思っている以上に肉体的な病変があっても耐えて生きる力があるということ、精神的な問題とのつながり方に問題があると身体は思った以上に機能できないということ、そしてそこを上手につないであげないといけないということです。

※1 《「チャップレン」とも》学校・病院・軍隊など、教会以外の施設や組織で活動する聖職者。
出典:デジタル大辞泉